逃げた青年

 

 

「後悔することは分かっていたんだ。でも我慢できなかった」

男の声が辺りに響く。

「俺にはきっと、この道しか用意されていなかったんだ」

 

男は会話をしているつもりでいる。話しかけられた張本人は、耳に入ってくる若々しい声を聞き流しているようにも見える。

しかし彼女は、その若い男の声を真剣に聞いていた。1つ1つの言動を聞き逃すまいと、全神経を集中し耳を傾けていた。

暗い部屋だった。灯りは必要最低限しか付けられておらず、室内の温度は低い。男が発する言葉が騒音になる程に周囲は静かである。外からの光もない遮断されたこの部屋を支配しているのは、未だに喋り続ける男。部屋の持ち主は、あっさりと男性へ主導権を渡し、話を止めようとはしない。

彼は、胸の内を全て明かしたくて仕方がない。聞き役がいてくれればそれで良い。吐き出し続けたい。その一心だけで自らの半生を語る。

部屋の持ち主。彼女は神様だった。

濃い紫色の体毛は整えたばかりで、未だ柔らかさを保っている。立派な縦耳には金色に光る輪のピアスが複数付いており、身につけている首かざり、とても豊満な胸を支える布、杖、十字架、黄金の腕輪、全てが高級品である。小顔の中で一際目立つ大きな瞳はきちんと化粧で強調されている。

彼女はアヌビス。墓所の守護者と呼ばれる、黒犬の頭を持つ神の一種である。

彼女は現在無表情である。少なくとも外見からは、一体この人外が何を考えているのかを読み取るのは非常に難しいだろう。

実際、今の彼女は何も考えていない。目の前で語られている他人の人生の一端を把握し、記憶することだけに集中している。

自らが経験することのない生き様、体験。貴重な経験を、この男はあっさりと明かしてくれるのである。1人の人間が生きてきた人生そのものを。

彼は話したがりだった。そして、聞く相手が彼女だけだった。ただそれだけである。互いに損はない。

話は、脈絡もなく始まる。

 

俺は恵まれた環境に産まれて育ってきた。物心ついた時から飢えなんてものからは疎遠だったし、洋服も最高級の立派なものを着ることができた。走ってはしゃげる程広くて大きな家に住めたし、家の中には僅かだが異民族の奴隷がいた。父からの教育は厳しかったし、勉強も辛く面倒だったが、ここを逃げ出したいとは思わなかった。いや、思わなくなったと言った方が正しいかな。というのも、外出するとたまに見かけるみすぼらしい格好をした庶民を見る機会が多かったからだ。

勉強をしなさい。頭が悪かったら、あの子達のようになるよ。

一応高貴な身分として産まれたのだから、よっぽど怠けない限り俺の地位は安泰な筈だ。だから父親の謳い文句は完全な脅しでしかなかった。それでも当時の俺は真剣に恐がったし、庶民になりたくないからと本気で勉強するようになったよ。だって、汚い布に身を包みながらまるで犬小屋のように狭い家で暮らしたくないからな。それに、毎日食べている美味しいご飯が食べられなくなるなんてまっぴらごめんだった。

俺の父親は、やると言ったことは必ずやる。例外はない。

だからこそ、脅しは脅しではなくて、警告として受け止めた。

昔、食べ物の好き嫌いが激しかった時があった。それはもう目に余るくらいで、嫌いな食べ物が出れば投げ捨ててしまうくらいだった。だがある時、ついに父親が激怒してな。ある日の夜「そんなにご飯が嫌いなら一生食べなくて良い」と夕飯を用意されなかったことがあったんだ。その日の夜は腹が減って腹が減って…もうお腹がよじれるかと思った。今でもあの日の苦痛は思い出せる。その時まで、人間は一食抜いただけでこんなに空腹になるとは夢にも思わなかった。仕舞いにはとうとう我慢できなくなって、真夜中に母親に泣きついたよ。父親の厳しさをよく理解しているからこそ、あの警告は本当に怖かったんだ。もちろん、その件に関しては父を恨んではいないよ。寧ろ、一時的にでもそういう苦行を味わえただけ本当に良かったと思う。あの薄汚れた少年や少女は、それが日常なんだからね。良い体験ができたと思うよ。

そんな環境で育ってきたからだろうか。俺の人生は先ず勉強が優先だった。勉強と言っても机に向かって本を読むだけじゃあない。剣術を学ぶような肉体を鍛えることも立派な勉強のうちの一つだ。

娯楽なんていう息抜きは俺の日常には挟まれていなかった。俺の生活は全て父親に管理されていた。勉学に励む時間、剣術をどのくらいの間行うのか、食事を楽しむ時刻まで決められていたよ。とにかく、幼い頃の時間を振り返っても、親の言う通りに動いた思い出しかないね。

充実していると言えばそうかもしれない。当時は俺も、与えられてきた人生が最高の幸福なんだと信じて疑わなかったよ。

そう。段々とおかしくなり始めるんだよ。

俺は将来役人になる為に、親の決めた学校へ通い始めた。狭き門をあっさりと通過してからもひたすら勉強。基礎的な勉強を終えた後に待っていたのは、今まで家で勉強していたことよりもずっと難しい内容だった。学ぶことについての忍耐力には自信があったのだが、いかんせんどうも内容が頭に入ってこない。どんなに教科書を読んでも先生方へ質問をしても、書かれていることを理解し、自分のものにすることにかなりの労力を費やした。

今思えば、役人になろうとする行為は、俺にとっては間違えた選択だったんだろう。ほら、やっぱりあるだろう? 人間には向き不向きってものがさ。綺麗事を並べてもさ、努力ではどうしようもないものはあるものさ。

でも父親のスケジュールでは、俺は将来役人以外考えられなかったんだ。ついでに言っておくと、俺は将来医者になりたかったんだ。だから家でも、医学の知識ばかり暗記していたね。今でも、少々の怪我なら適切に正しく対処できる知識くらいは持ち合わせているつもりだ。

そういうこともあって、俺は産まれて初めて勉強というものが嫌になってしまった。机に向かうのが億劫になる日が来るとは夢にも思わなかったね。学校の授業も詰まらない。与えられた課題は苦行でしかない。と言って、当然父親には逆らえない。

あの頃は、親に反抗するという発想すら思いつかなかったね。

目の前に与えられた道が、俺が歩むべき道だと疑わなかったからだ。

気がつけば、教科書を開くだけで気分が悪くなるくらいに追い詰められていた。

この時から、段々と俺の人生は狂ってきたんだ。

 

 
男がむせる。乾いた咳が繰り返される。

唯一の聴き手である彼女は決して男を気遣わない。寧ろ、彼を邪魔してはいけないと彼女はじっと口をつぐんだままである。アヌビスは、大きく深呼吸をする。全身についている装飾品が揺れ、金属同士がこすれる音が響く。男は話を中断し、初めて彼女を、その凛々しい姿をまじまじと見つめてきた。

『あなたは。いや、あなた様は、人間じゃなかったのか』

彼は、大げさではなく本当に驚いているようだった。

『随分豪華な服を着ていますね。びっくりしました。こんな空気が重くて薄暗い部屋にいる人物は、てっきりそこらへんにいる庶民かと思っていました。心からお詫びします』

「別に良い。口調を直さなくても良い。続けて」

ここにきて初めて彼女は喋る。暗くて狭い部屋に響く良い声だった。大人の女性が持つ、若干低くて魅力ある発声。威圧感もない優しい一言に、男は本来の目的を思い出す。

『では遠慮なく、このまま話させて貰います』

男は少々遠慮がちになる。それでも、なるべく自らのペースを乱さないよう努める。

誰かにただ心境を聞いて貰いたい。相手が高身分だと分かっても、心中を埋め尽くす感情を吐き出したい欲は治まらない。

彼は、真剣な眼差しのアヌビスを目の前に、話を続ける。

 

まあ逃げると行っても、家を、身分を捨てる訳じゃない。そもそもだ、そんな勇気を俺が持ち合わせているのならば、大切な将来のことについて父親に反論することくらいできた筈だ。俺は医者になりたいと、人の命を守る行為をしたいと正々堂々断言していた筈だ。でも実際、あの頃の俺は親の言いなりだ。思い切って親に抵抗してみて、万が一家から追い出されたりしたらお終いだ。役人にもなれず、手に職もない中途半端な男が放り出された先はどこか。あの庶民と同じ生活だ。役人になるのは嫌だったが、生活の位を落とす方がもっと嫌だった。だから、自分は役人に向いていないと気づいてからも暫くは必死に食らいついて勉強していたよ。娯楽を捨てて、生活の全てを役人の知識を学ぶことに注いでいた。

人生の中で一番努力をしていた時期だと思う。

でも、限界は突然訪れた。

学校へ入学して半年くらい経った頃だろうか。酷く気分が悪い日だった。連日の寝不足のせいで目まいと頭痛に悩まされていて気分は最悪だった。どうしてこういう日に限って朝から晩まで授業があるのだろうね。最初は真面目に出席していたが、あまりに体の調子が悪いものだから、先生に志願してその日は欠席させて貰ったよ。傍から見てもよっぽど体調が悪く見えたのだろう。あっさりと帰宅することを許されたよ。人間、健康は何よりも大切だからね。当然、その日はしっかりと休んで、次の日はきちんと出席する為に学校へ行ったさ。俺は臆病で言いなりだからね。

でも、体は正直だった。

教室へ近づくと、動悸がするようになってしまったんだ。

部屋の中から同じ生徒が声をかけてくれる。大丈夫か。今日からまた頑張ろうと労ってくれる。俺を表面上だけでも心配してくれているんだ。無理してでも笑顔で答えたさ。ありがとうって。だが、心に反して体は動かなかった。足を動かそうとすると呼吸が乱れた。汗が額に滲んだ。生徒が更に気遣ってくれる。それでも動けない。ここにはいない父親の罵声が聞こえた気がした。逃げることは許さないと、確かに頭に響いたよ。幻聴だった。でも確かに耳にこびりつく、あれは呪いだ。

絶対後悔することは分かっていた。

それでも、その日から学ぶことを止めてしまった。逃げてしまった。

学校には必ず足を運ぶことにはした。でなければ、怠けていることが早くばれてしまうからね。もう苦しまないと、必死に自分へ言い聞かせながら学校の敷地内に入る。そして教室とは全然関係のない場所へ行く。適当に時間を潰してから帰宅する。そんな毎日を繰り返したよ。

最初は図書館で勉強だけはしていたけれど、それも直ぐに止めてしまった。手に取る本は医学書ばかりだったのにその有様だ。

いつの間にか、知識を自分のものにすること自体嫌悪するようになっていた。

勉強を止めて知ったことがある。学ばないというのは、とても楽だということだ。

頭を働かせず、ただのんきに生きていく。しかも飢えることがない。偉い人間になるよりも、ずっと魅力的な生活だ。

何よりも、授業に出ないという行為は、物凄い優越感を味わうことができた。皆が必死になっている中、俺は隠れて昼寝をしたり美味しいものを口にしている。安らかな気持ちの中、今頃皆は苦労しているのだろうと思う。そうすることで気分は高揚する。背徳感と罪悪感は、同時に快感でもあった。

落ちこぼれというものはどこにでもいるもので、俺以外にも結構授業に出ない生徒がいた。学力が足りず、純粋に授業の内容に付いていけない奴もいれば、俺以上の力と才能を持ちながらも、授業を聞くよりも独学の方が良いと言う同期もいた(天才とはああいう人間のことを言うのだろう)

授業に出なくなってから、俺はある同級生と仲良くなった。そいつも授業に出るのが億劫になったようだった。別に特別好いていた訳ではないし、そいつの詳しい身分も知らなかったが、たまたま会えば時間をよく共有した。顔を合わせる度に二人で語り合ったものだった。そいつも役人になりたい訳ではなく、建築家になろうとそちらの専門課程へ行こうとしたら、両親から猛反対をくらったらしい。身勝手な親はどこにでもいるものだ。

似たような境遇。段々と気が合っていくのは当然のことだった。

ある日のことだ、良い日だった。気温も穏やかで過ごしやすい一日だ。俺はまた授業にも出ず、そいつと雑談をして互いの時間を共有していた時のことだ。その頃になると、もうすっかり勉強というものが嫌になっていて、必死に頭に詰め込んできた役人の知識は一欠けらも残っていなかった。今から真面目に学び直せと言われても無理な話だ。産まれてからずっと積み上げてきたやる気も、跡形もなく潰れていたのだから。

あいつも同じような状況だ。俺達は、いつ学校から追い出されてもおかしくない状況だった。

そんな矢先だ。あいつが俺にこう囁いてきたのは。

『神殿へ行かないか?』

小さな頃から様々な本を読んで育った身だ。あいつの一言で、俺を何に誘っているのかが直ぐに分かった。もちろん直ぐに承諾し、先生達の目を盗んであいつと外へ出た。

神殿娼婦。それが、俺達の目的だった。

当然神様も知っているだろう? 彼女達の存在を。

神殿に仕え、人口を増やす為に男と交わる女達。あいつは、彼女達のところへ行こうと誘ったんだ。

俺だって一応男だ。結婚する前だったが、そういうことには当然憧れていた。だが、臆病者な俺は、この国民なら誰だって行ける筈の神殿へ行くことをためらっていた。そもそも、独りで何か新しいことをするのがとても苦手なんだ。だからこそ、あいつの誘いは願ってもないことだった。

神殿へ行くまでの間は、もう余計なことを考えなかったよ。ただ、未知の体験への期待が膨らむばかりだった。

別に犯罪をしに行く訳じゃない。そもそも国民を増やす行為は、俺達国民の義務だ。だが俺は、父親の反対が強くて一度も顔を出したことがなかった。だからこそ、あの行為に過剰な夢を持っていた。あいつには感謝しているさ。女を知るきっかけをくれたのだから。

神聖娼婦と交わる為には、農作物等を収めなければいけない。俺には農作物を収めることはできなかったが、身につけているそれなりの装飾品で事なきを得た。

神殿での行為が終わってみて思ったよ。

これまでの人生はかなり損をしていたと。

あんなに良いものがあるのかと感激したのをよく覚えているな。

俺の手解きをしてくれた娼婦は、それは良い人だった。異性に慣れず戸惑う俺を、最初から最後まで優しく導いてくれた。後から聞いた話だが、俺の父親は、俺が通っていた神殿とは別のところでそれなりの仕事をしていたらしい。だからか知らないが、神殿のお偉いさんは、俺には特別評判の良い女の人を寄こしてくれたようだった。殿勤めってことは、こういう仕事もしていた訳だ。それなのに、俺に神殿へ行くな、なんて言い聞かせていた。笑っちゃうよな。

でも、父親が神殿へ行くことを禁じていたのも、分からないでもないんだ。

実際俺は、あの日から、神殿へ行くことばかり考えるようになってしまったのだから。

これまで俺は、学校で真面目に授業を受けていないと言っても、とりあえず学校の敷地内へ赴いていた。だが、神殿へ行ったあの日から、遂に学校へも行かなくなってしまったよ。

娼婦は神聖な職業だ。俺よりもずっと偉い身分しかなれない天職だ。いくら身分が高い男でも、収めるものがなければ行為はできない。

俺は、家にある貴重品に手を出すようになった。最初は自分の持ち物を神殿へ渡していたが、まだ働きに出ていない奴が持っている高価な品物なんて限られていた。自分の部屋がすっからかんになってからは、倉庫の方へと手を伸ばした。それなりの広さの倉庫の中の、大体入口に置いてある箱を開けると、小さいが宝石類がいくつも仕舞ってあった。少しずつ、不自然がないようにそれらを抜き取っては神殿へ通った。いつの間にか、俺を引導してくれたあいつよりも神殿へ入り浸るようになった。神殿側も、貴重品を収めてくれる若者として結構評判が良かったみたいだった。色々な娼婦と交わった。皆、品のあって良い人達ばかりだ。腐っている俺を癒してくれるのだから。行為に没頭している時は、何もかも忘れられた。本当に何もかもだ。性行為に夢中になり、盗みを重ねまくる。

危機感なんてものは、とっくに胸の内から消え失せていた。

でも、悪いことはできないものだ。

最高に有頂天になっていた頃だ、倉庫で宝石を盗み出そうとしているところを、父親から見つかってしまったのは。

これまで聞いたことのない汚い罵声。殴る蹴る等の圧倒的暴力。確かに痛がったが、理不尽だとは思わなかったな。だって今回ばかりは、殴られる程のことをしてきたのだから。

そして、父に、俺が学校へ行っていないこと、娼婦との情交にうつつを抜かしていること、全てが知られてしまった。

俺は必要時以外の外出を禁止された。それだけならまだ良い。しかし、あいつは、俺をまだあの学校へと通わせようとしていたんだ。

信じられないよな。あの場所は、俺が落ちぶれた原因なのに。またそこへ行けと命令したんだ。余程予定が狂うのが嫌だったんだな。

だからこそ頑張った。最大限の努力をした。

これが最後の機会だから。

とうとう勇気を振り絞って医者になりたいと言い出した。

一蹴された。予想通りだった。

だから逃げることにしたんだ。

 

男の話が止まる。また咳込む。アヌビスはやはり沈黙を守っている。

不思議だ。アヌビスはそう思う。確かにこの場所は太陽の光が入ってこないし、空気が籠っている。しかし、彼女は定期的にこの部屋を掃除しているので案外塵や埃は少ない。人がむせるような劣悪な環境ではない筈である(現に、いかに神様とはいえ彼女がここにいて健康上問題ないのだから)。それなのに、彼の咳は止まらないのだ。


もう男には、むせる喉など存在しないというのに。


彼女の手の平の中で、男が成人男性の心臓が静かに語り続ける。赤黒く変色した心臓はまだ喋り続ける。相変わらず咳は止まない。

 

真夜中、俺は思い当たる家中の貴重品を全て盗み出し、家を抜け出すことにした。もちろん罪悪感はあったが、これまで抑えつけられていた父親への憎悪がそれをかき消した。当然、母親にも別れを告げず、貴重品を沢山包んだ袋を背負い夜の外へと駆けだした。

あの時見つからなくて良かったと思う。いや、もしかしたら、父親は、知っていて俺を見逃したのかもしれない。本当に俺を逃がしたくないのなら、自室前に見張りでも立てる筈だ。もう、失敗作についてあれこれ考えたくなかったのだろう。そうに違いない。

安泰した暮らしを捨てる。庶民の暮らしに落ちる。それはとても辛いことだった。

だが、束縛されて苦しむのなら、一時の自由を選ぶことに決めた。

逃げ出してしまえば、結構心地よいものだった。心は解放感で満たされた。

幸いにも当てはあった。俺を神殿へ行こうと誘ってくれたあいつだ。聞けば、人には言えない仕事もいくつかこなしていたらしい。彼に家を抜け出した経緯を話すと、あいつは同じ組織という場所に俺を受け入れてくれた。

 
詳しく語っていたら神様も飽きてしまうだろうから割愛するけど、もう汚い仕事ばかりしてきたよ。酷いものだ。人を傷つける仕事だ。命を救う医者という夢とはかけ離れた現実だ。

だがいいこともあった。

組織が運営する神殿の娼婦をいくらでも抱けたことだ。

幸いにも、俺は人には言えない仕事を失敗したことが殆どなかったから、特に優遇して貰ったよ。好きな娼婦を選り好みできた。

刺激もあった。性欲も満たされた。厳しくても実感できる見返りがあった。

それから数年間は上手くやっていたと思うよ。組織の上の人にも認められて、あいつとも仲良くやれて。

思い返してみれば、あの頃が、俺の人生の中で一番幸せだったのかもしれないな。

数年経った頃、俺の人生は順調だった。組織の中でも動く側ではなく命令をする側になり、体ではなく頭を使う仕事が増えた。そこからが本領発揮だ。その頃になると、汚いことをするのにはすっかり慣れていたので、自らの行いによって人が亡くなることになっても心を傷めなかった。

いや、違うな。確実に良心は悲鳴を上げていた筈なんだ。

感覚が麻痺していた、と言った方が正しいだろうな。

その分、娼婦と戯れる時間が増えた。彼女達と過ごせるからこそ、目の前に置かれた仕事をこなすこと苦に思わなかったのだろう。娼婦の方も、安心して暮らせると喜んでくれたよ。いつの間にか俺は稼ぎ頭になりつつあったからね。

ある日、昨日俺と楽しんだ娼婦が体調不良を訴えた。彼女は特に俺のお気に入りだった。娼婦という高貴な仕事に就いていなければきっと俺達は結ばれていただろう。それくらいに心通わせた相手が体調を崩したんだ。組織の上も仕事を休むことを許してくれた。

俺は一生懸命介護をした。一日中付き添った。手を握って彼女を励まし続けた。

だがある日、組織の上が俺の看病を半ば強引に止めた。

『彼女は病気だ。しかも治らない。必要以上に近づくと、お前まで病気になってしまう』

信じたくはなかった。俺は、上の命令に背いた。狭い個室に追いやられた彼女の部屋へ通い詰めた。きっと上にはばれていただろう。俺は彼女を必死に励まし続けたよ。必ず助かると、だから早く治そうと。

だが、組織の上が言っていたことは嘘じゃなかった。

だって彼女は、実際に亡くなってしまったのだから。

そこで初めて、他人の死と身近な死は、全く違うものだと知ることになったよ。

しかも彼女は安らかに逝かなかった。咳込んで、呼吸もままならないまま死んだんだ。

悲しかった。口調だけだと淡泊に聞こえるかもしれないが、冷たくなった彼女を見ると、今でも涙が溢れてきそうになる。声が震える。情緒不安定になる。

また数日の間仕事を休んだと思うだろう? そんなことはない。それからは、狂ったように仕事に励んださ。沢山沢山、汚いことを続けた。他に彼女を忘れる手段が思いつかなかったからだ。数え切れないくらいに血で手を汚していった。

だが、それも長くは続かなかった。

咳が出るようになった。最初は緩やかだった。だが、そのうちに止まらなくなった。死んだ彼女と同じ病気になったのだと知った。

俺は部屋に閉じ込められた。彼女が死ぬ間際まで苦しんでいた部屋だ。狭くて暗くて、日の光が差し込まない場所。そう、神様と俺がいるこの場所に似ているな。でも、あそこの方がもっと環境が悪い。部屋は汚いし布団も湿っている。俺には、看てくれる人もいなかったのだから。友人と呼べる、組織に勧誘してきたあいつだって、必要以上に部屋へは訪れなかったからな。向こうは申し訳ないと謝っていたが、俺は気にするなと言っておいた。だって、彼だって同じ病気になりたくはないだろうからな。

苦しかった。

息ができなかった。

死ぬのは恐かった。

だって俺が死んでも、愛した彼女のように、楽園へ行ける筈はないのだから。それ程に人を殺めてきたし、他人の幸せを奪ったのだから。

人を傷つけてきた奴が神様に救われる訳がない。そうだろう?

 

『ところで、俺は死んだんだろう?』

「ええ。死んだわ」

男の話が終わる。アヌビスは即答する。彼女の、アヌビスの表情は至福で満ちていた。

『死者が必ず受ける死者の裁判″を受けたことは覚えているんだ。当然、死者の裁判では、死者の楽園へ行くことを拒否された。沢山殺したり他人を不幸にしたからだろう。心臓は消滅した筈だ。この世から消えた筈だ。それなのに、どうして俺はここにいるんだ。どうして、死者の裁判で俺の判決をした神様と一緒にいるんだ』

彼女は目を細め、薄ら笑いをするとこう答えた。

 

「ここがあなたの監獄よ」

 

彼は、少しの間沈黙すると、穏やかな声でこう言った。

「そうか、これが俺の罰なのか。そうか」

男は納得する。

これが自らの懲罰なのだと。

これが自分の罪の形なのだと。


それから彼は、男の心臓は喋るのを止めた。半生を思う存分語り満足したようだった。

アヌビスは、薄い笑みを浮かべながら、立派な壷の中へ心臓を仕舞う。シンプルで丈夫な壷。男は、自分が閉じ込められることに異議を申し立てることはない。大人しく、彼女の行動に従う。

堕ちた男も、心臓を仕舞ったアヌビスも、充実した時間を過ごせた。誰も損する者はいない。

 

彼女は、男が咳込む理由に心当たりがあった。

結核。恐らく、いやきっとこの男は、その病気にかかったのだろう。

少し前、この国で人に伝染しやすい病気である結核が流行っていたのだ。実際、多くの死者が出てしまい、死に密接に関係する神である彼女は、連日激務に追われる羽目になったのだった。

だが、アヌビスは寧ろ喜んでいた。

理由は1つ。自分のコレクションが増えるからである。

 

狭い部屋の棚には、いくつもの壷が並んでいる。

この国で死ぬ者は、神々が行う死者の裁判を受ける。生きていた中であまりにも悪い行いをした者は、生命の象徴である心臓を消され、存在そのものが消滅し、二度と産まれ変わることはできなくなる。


しかし、ここに例外がある。

彼女は心臓収集家。

この世から完全に消え去る予定の、心臓を集め続ける変わり者のアヌビスである。








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