憤懣欲求

 

殺したい。
 
生まれた時から彼女の頭の中には、その感情しか溢れていなかった。
 
それもその筈である。
彼女は、それだけの為にこの世に生まれたのだから。



セクメトと呼ばれる女神、彼女は生みの親である全ての始まりである神からセテプという名を貰った。
 
精悍な表情は人類のものではなくて獅子のもの。加えてその肉体はほぼ筋肉で覆われており、その外見が一つの芸術である。
長い年月をかけ、様々な犠牲を払い、絶え間なく努力を積み重ねた屈強の戦士に劣らない美肉体は、男女問わず理性のある生き物を魅了する。
その肉体は、文字通り、殺人という行為を行う為だけにこの世に存在する。

彼女を生んだ親は言った。自分を見下してきた人間どもを懲らしめてやれと。
 
彼女は言う通りにした。人間という生き物の息の根を止めることだけに没頭した。
 
殺人の道具が人を殺す為だけに存在するのと同じである。
殺人に秀でた神が人間を殺すことは容易い。
 
だからセテプは実行した。

ある人間をその鋭い爪で頭と体を分離した。ある人間の子供は心臓を刺すだけで簡単に死んだ。また、ある夫婦は営み中だったので、無性に怒りを覚えた彼女は男の性器を食いちぎってやったし、女性の内部を全て掻き出してやった。人間の腕だけを集めて地面に刺し、人間の花畑を作ったこともある。
当然抵抗する者もいたが、そのような身の程知らずの人間は直ぐには殺さなかった。丈夫な縄で手足を縛り、両手と両足を一本ずつ引きちぎった。勢いなんてものはつけない。少しずつ力を増してじんわりと分離させるのだ。なるべく多くの苦痛と絶望を味あわせるために、わざと、じっくりと。そうすれば怒りに燃えていた人間は泣いて叫ぶ。助けてと、早く殺せと。殺しても良いからもう楽にしてくれと。だが彼女は最後にはこう言ってやる。


「お前達が信仰する神がこうすることを許可したのだ」と。


稀に理性を保っている人間はこう叫ぶ。そんなことは嘘だと。創造神がそんなことをする筈はないと。お前はこの国の神ではなく、異教徒の神だろうと。だが彼女は宣言する。私は創造神の体の一部から生まれた神だと。殺す人間がその言葉を信じるかどうかは関係のないことだった。私は正しいのだと、そう宣言してから人間を殺した。
 
殺しの女神にとって、殺人は快楽でしかない。
彼女は休まずに働いた。それが、創造神の望みだったからだ。
 
セテプが歩けば街は紅く染まる。生臭さで満ちる。生き物は皆息絶える。
 
その快楽。
何十年と積み重ねてきた命がほんの一瞬で絶たれてしまう。それを嬉しく思った。
 
私にはその力がある。
私にはその権限がある。
 
命を奪える絶対的な優越感。本能に埋め込まれた快感に、彼女は素直に従ってきた。
 
しかしある日、彼女は親から止められた。
やりすぎだと。もう充分だろうと。
彼女は聞かなかった。いや、聞けなかった。
なぜなら、憤怒しか考えられなくしたのは、他でもない人間達の創造主である彼女の親なのだから。
 
彼女は悪くない。ただ、生まれた理由を果たしているだけ。
 
それからもセテプは責務を果たし続けた。一晩で国の街が滅びるのも珍しいことではなかった。国にいる力ある神は沢山いたが、殺しに長けた彼女を止められる者は誰もいなかった。実の親でさえ制御することはできなかった。
 
 
殺し、殺し、殺し、殺し、殺し、殺し、殺し、殺し。殺し。殺し。殺し。殺し。殺し。
 
血、血、血、血、血、血、血、血。血。血。
 
絶叫、絶叫、絶叫、絶叫、絶叫、絶叫、絶叫、絶叫。絶叫。絶叫。絶叫。絶叫。絶叫。絶叫。
 
 
それがセクメトという神様の生き方だった。
 
ある日、彼女は褒美を貰った。気持ちを朗らかにする極上の酒を。
 
やりすぎた節はあるが、よく働いてくれたと。極上の褒美を用意したから、これでたまには息抜きをしておくれと。
 
セテプにとって、息抜きこそ殺人だったが、褒められるのも悪いことではないと思った。それに、せっかくの好意を無駄にする理由はなかった。
 
彼女は用意された酒に口をつけた。酒には人間の血が含まれていたので、それはもう美味なものだった。
 
周囲には沢山の壷が並べられた。

それらは、全て紅い酒だった。血液を連想させる大量の葡萄酒。
それらを口にして、セテプは歓喜する。
殺し以外に、こんなによい物があったのかと。
何日もの間、彼女は飲み続けた。用意された酒は彼女にとっては極上の味だった。気分が朗らかになっていくし、気持ちも高揚する。彼女は、特別な液体に魅せられた。
 
全てを飲み乾した後に、彼女は深い眠りについた。

目を覚ました時、彼女は力を奪われていた。
 
やりすぎたからと、殺せないようにと、生まれた理由を抑制された。肉体に眠る力を取り上げられ、殺せないように制約をつけられた。
 
セテプは怒りを覚えた。親を激しく憎んだ。

なんて身勝手なのだろう。 
私は、望まれたことをしてきたけなのに。
私から生きている理由を取り上げるのか。
 
人間の息の根を止めること。それが生きがいだったというのに。
 
セテプの親は、ただひたすらセテプに謝罪を繰り返す。すまなかったと。私が血迷ったと。もうお前は無差別に殺さなくてもよいのだと。殺めずに、立派な神として君臨して欲しいと。
 
それは、彼女に取って拷問意外の何者でもない。
セテプは殺しの道具だというのに。ナイフが切ることを禁じられるようなものだというのに。
圧倒的な力を取り上げられたセテプは行き場を失った。

 
殺したい。
 
親から存在を否定された彼女の中には、やはりその感情しか溢れていなかった。


 




セテプは、王の護衛という責務を果たすことになった。
大きな国をまとめる王。長い歴史という呪縛は、王という人間の権限を限りなく強くしてきた。
王の判断が多くの国民の運命を変えることもしばしばある。王が隣国と戦争すると言えばそれは行われるだろう。そして勝利の有無関係なく、必ず一部の兵士は命を落とす。命の削りあいをすればそれは避けられない。
また、仮に王が強欲な性格の持ち主であり、国の税金を上げろと命令すれば当たり前のように税金は上がるだろう。そこに、確かな正当性がなかったとしても、理不尽な命令は執行される。
 
王は偉いものであり、絶対的権力を所持している。それは、国という単位でまとまっている人間からすれば常識である。
そんな王に、支配する側になりたいと望む者も少なくはない。
 
例え話。
少々強引な手を使っても、王の寿命を縮めようとする輩もいる。
 
セテプは、そんな犯罪者を止める役割を与えられた。王が諸事情で遠出する時には常に側近として同行したりもするし、夜間王室で暗殺者を待ち構えることもある。
 
確かにセテプは力を取り上げられた。
それでも彼女には、圧倒的な力があった。訓練した人間の努力を軽くねじ伏せるほどの。
その場合、彼女は殺人を許された。明らかな悪は瞬時に殺害してもお咎めはない。

それが彼女の活力にもなった。自分がこの世にいる理由にもなるからだ。彼女にとっては、力をもぎ取られた鬱憤を晴らす絶好の機会であるし、何より王を守れば皆が喜んだ。

さすがセテプ様だと。
あなた様にしかできないと。
 
昔も今も、他人の命を止めれば褒められる。喜ばれる。
だから彼女は現状に満足することにした。自由に殺せない不満は、酒で紛らわすことにした。
 
彼女の元には、毎日、浴びるほどの酒が届けられる。真っ赤なワインを彼女は特によく好む。紅く透明感のあるワインは、血を連想させるからだ。彼女の本来の好物。それは、人間に流れる血液。それを常時摂取できなくなった彼女は、そのアルコールで疼きを満たす。そうしていれば、セテプもある程度は冷静でいられるからだ。
 
殺人に勤しむことをしなくなったセテプは、常に暇を持て余していた。
そもそもだ。彼女はこの世にいるだけで脅威なのである。そんな神様が王を護衛しているとなれば王の座を狙う者はなにもしてこない。いや、なにもできないと言った方が正しいだろう。セテプが護衛に任命されてからは、それはもう当たり前のように不祥事は起こらず、近隣の国々もこの国に友好的な対応を取るようになった。
 
当然だった。下手に逆らえば、一つの国の地面が全て紅く染まるだろう。
皮肉なことに、セテプはこの世に必要な存在になってしまった。
自由に殺人は行えない。しかしそれでもこの世にいてと懇願されている。生きていてくれと頼まれる。
 
そんなものは理不尽だとセテプは思っている。正直、本心から納得はしていない。
一時、残された力を駆使し、絶命するまで暴れてやろうとも思った。自らを苦しめる国に制裁を加えてやろうと思った。自分自身は神様なのだ、この世に特別な扱いで生まれたのだ。それくらいのこと、ちっぽけな国を滅ぼすくらいの能力は持ち合わせている。
 
しかしそれは不可能な話である。本気でそんなことをすれば、彼女を生んだ父親を始め、多くの神々を怒らすことになる。彼らだって、その気になれば、殺しの神である彼女を本気で止めるだろう。
確かにセテプの力は以上に屈強だった。しかしそれでも、今の彼女は数の暴力に負けてしまう。
 
セテプは、殺したくても死にたくはなかった。
他人の命を削ることはしても、自らの命を消したくはなかった。
 
だからセテプは時間を浪費している。最低限以上に他人の命を奪わないまま、酒という代用品で欲を抑制しながら、国の恐怖の象徴として宮殿に君臨し続けている。







国が現存する限り与えられた猶予のほとんどを、セテプはその大きな宮殿で過ごすことになった。彼女は他の神々や宮殿に仕える人間の視線なんてものを気にせず、宮殿内を練り歩いた。
 
殺したい。
セテプの殺人行為欲求は、言わば彼女にとって本能であり、彼女が存在している理由でもある。根本から消せるものではないが、酒によってそれを抑制することはできていた。
 
しかし、不満が消えない訳ではない。
 
彼女は常に妄想する。今怯えながらすれ違った人間の使用人の首筋を爪で撫でた時の柔らかい感触、冷静を装った警備兵の陰部をもぎ口に含んだ時の発狂する姿、通り過ぎた力の弱い神の心臓をえぐり出して一気に握りつぶした時の絶望する顔、無邪気にこちらを眺める高貴な子供の体を十つ以上にじっくりと時間をかけて分解した時の絶叫と、セテプを見て我が子を庇うように隠した母親の抜け殻のような表情。
ああ、そしてその母親も分解してやるのだ。バラバラにした体を積み木にして遊んでもいいし、子供の死体と混ぜ合わせて食べてもいい。親子共々私の一部になるのだから、殺された方も本望だろう。
 
やろうと思えば、その地獄絵図は直ぐに完成する。
 
それが実現すれば、どれだけ気持ちよいのだろうか。
 
しかし、それをやれば自分が危ういことをセテプはよく理解している。だから想像するのだ。頭の中で、起こらない未来を夢見て酒を飲む。紅い酒を。そうすれば、幾分気持ちが晴れていく。
 
だが、まやかしでは不十分だ。
だから彼女は散歩をして気持ちを紛らわせている。別の事で欲望を満たしている。

王が住む宮殿は広い。宮殿内そのものが芸術的であり、それは神様の心も射止める。壁から柱に至るまでに敷き詰められた壁画には、王や神々の肖像画や戦争の風景が並ぶ。歴代の王族の経歴や神々を称える文章がまとめられている。そして均一的な壁画の色遣い。建物そのものが一つの作品であり、それらを一目拝見しようと訪れる国民も多いほどである。
 
そんな場所に住んでいるセテプも、この内装には惚れ惚れすることが多い。壁画も文字も、それぞれが職人の魂が練り込まれていると彼女は思っている。近くで観察し続けてもなかなか飽きることはない。
 
芸術に囲まれていれば、彼女の心はいくらか安定した。
それらは、彼女が散々殺害してきた人間を見直すよい機会でもあった。
 
生まれるのに時間がかかる癖に、詰まらないことで簡単に絶命してしまう脆い生き物。そんな命が創造するモノと、その発想力に、セテプは素直に感心する。
 
ある日、彼女は質問したことがある。どうしてこのような内装にするのかと、王の気まぐれかと皮肉を込めて職人に尋ねてみた。

「もちろん私達職人は言われた通り最高のものを作るだけですが、全く無意味なことではないようです。この国がいかに素晴らしいものであるのかを後世に残す意味もありますが、特殊な呪文を刻んでいると聞いたことがあります」
 
特殊な呪文? セテプがそのまま返す。
男は、セテプに怯えながら続ける。

「はい。人伝に聞いただけなので確証はありませんが…なんでも、セテプ様のような神様は、元々別の生き物なので、現世に留まっていること自体難しいことなのだとか。その為に、建物の呪文で神様達の手助けをしているそうです。詳しいことは分かりませんが…」
 
声が細くなって縮こまった職人に仕事を止めてしまった詫びをしてからセテプはその場を離れることにした。
 
なるほど。彼の言っていたことは間違いではないかもしれないと彼女は思った。まだ国を自由に歩き回っていた時、宮殿に戻ってくると体が軽くなるし、活力が湧いてきた覚えがある。
 
なんだ、人間は、一応神を労ってはくれているではないか。
例えそれが、自分たちの保身の為だとしても。
 
セテプは更に人間を見直した。考えてみれば当たり前のことだ。人間側がその圧倒的な力を借りようというのだから、違う形で我々の補助をしていても不思議ではない。ただ、群れているだけの弱弱しい存在ではない。
 
確かに、これは殺し過ぎてはいけない存在だ。
 
セテプは改める。そう、時々殺せたりはするのだ。かなり少なくなってはいるが、無謀にも王の命を狙う者は完全にいなくなった訳ではない。そういう分からず屋な奴が姿を現したらきちんと絶命させてやればいい。許しがあればじっくり拷問してみてもいい。生きていた事を後悔させてやればいい。
 そう、気持ちよいことは、我慢すれば我慢するほど快感が大きいのだから。
 
再び生きる意味を見出したセテプは有頂天だった。そんな人間の役に立てていると思っていればここに存在している理由にもなる。
笑顔のまま、彼女は目的もなく宮殿内を徘徊する。赴くままに進んで行く。王が創らせた、国の中で一番大きな宮殿の奥。一般人は許可なく立ち入ることができない空間。すれ違う人も少なくなり、派手な建物内を独り、我が物顔で歩いて行く殺しの神。
 
 
そのうちに、セテプは、高貴な人間と神が心を癒す箱庭にたどり着いた。
 
 
木の擦れる音、溢れる草木の匂い、そして、美しく生き物を惑わす花の色彩。
当然のように、人間も神も誰もが同じように感じた気持ちも彼女は持ち合わせた。
 
感嘆する。
美しいのは当然のことだった。あくまでも見た目に拘ったその環境は、生き物の心を潤す為のものだからだ。
だが、セテプはあくまでも、庭のほぼ中央で仁王立ちする生き物を凝視している。

 

庭に立つ生物、彼女は神様だった。


先ず特徴的なのは、人間の頭部ほどある豊満な二つの胸部。それは、彼女は男の神アヌビスにも関わらず女性であることを示している。全身を覆う濃い紫色の体毛はきちんと整えられていて清潔感がある。化粧された無表情な顔。耳には黄金のピアス、その他、胸を支える布や局部を隠す薄着の服。体中に散りばめられた装飾品、手に持つ十字架。彼女は、あくまでもいつもの恰好で、その風景に溶け込んでいる。

 
アヌビスのメシェネト―通称メシェ―は、庭に咲く花を傍観している。
 
セテプは、まるで切り取られたようにそこに存在し続けるメシェを見つめ続ける。いや、見惚れ続ける。
それは、常に脳内を支配し続ける怒りとは違う、心の内部をじんわりと温める感情。
 
初めての感覚。
 
セテプは、ただひたすら凝視し続けた。少し遠くにいる存在と、風景が作り出す調和。それは、一流の芸術家が渾身の力で切り取った絵のように美しく、儚い。
 
風が吹いた。花が揺れ、草木が擦れ、メシェの長髪と体毛がくすぐられる。
 
漸く、向こうはセテプという殺人鬼が呆けていることに気がついたようだった。

「こんにちは」
 
無表情のまま、感情を見せることなくメシェは呟く。

「こ、こんにちは」
 
セテプは、ただオウム返しをすることしかできない。
それきり二人の会話が途切れてしまう。
当然のことだった。メシェの交友関係は狭く深い為、普段はその整い過ぎている仮面の面構えで対応する。セテプと対面するのは初めてであり、そんな相手で素の姿を見せるほど彼女は愚かではなかった。
対するセテプは、胸の内に生まれた温もりに戸惑い続けていて、上手く言葉が出てこない。
 
口を開かないといけないのは分かっている。ここでなにかを言わなければ、この出会いはここで終わる。その事実を、セテプはしっかりと感じ取っている。しかし、これまで他人との対話をしてこなかった彼女にとってそれは無理難題でしかない。いくらセテプが神様だろうができないものはできないのだから。
 
そう、彼女はあくまでも殺す為にこの世にいるだけであって、本来ならば誰かと話す必要はないのだから、できなくても仕方のないことだった。
 メシェはただひたすらセテプを見つめ、セテプは焦りながら言葉を口にしようと努めている。そんな間は誰にも邪魔されることはなく、ただ時間だけが経過していく。

「こっちへ来る?」
 
前へ踏み出したのはメシェの方。
セテプは、言われるがまま美しいアヌビスの元へ近づき、彼女の隣に立った。
 
意外にも、見惚れた雌のアヌビスの身長は高いほうで、加えて体格がしっかりとしている。華奢な体には生命力が溢れており、健康体であることをセテプは理解した。沢山の生き物を殺してきたからこその洞察力である。

「あなた、セクメトね?」

「え、ええ」

「ラー様に憤怒の感情だけを詰め込まれて産まれてきた殺しの神様」

「ええ。そうよ…」
 
なぜだろうと、セテプは疑問に思う。
このアヌビスはただ事実を述べただけなのに、それが物凄く悔しいものと感じてしまった。

「ここ」
 
本来ならば脅えてもよい状況なのにも関わらず、メシェはあくまでも冷静に、セテプとただの他人として扱っている。
彼女は示された方向を見る。
 
そこには花が密集していた。新鮮な草木を生やし、一本の茎を軸にして小さな花が筒状に咲いている。紫、桃色、白、赤等、様々な色の花が香りを漂わせながら集まっている。
乾燥する土地に根付くアート、ルピナスの花。

「この花は、ここを管理する人間が咲かせた飼育するのが難しい花。なかなか外では見られるものではないわよ」
 
セテプは、ただその花を眺めている。

「綺麗だと思わない? 人間が、限られた制限の中で苦労して育てあげた自然の芸術」

「綺麗だと思う。とても」

「そう。あなたもそう思えるのね。もっと恐い神様かと思ったけどそうでもないのね」
 
その仮面を少し崩し、緩く微笑むメシェ。その顔に、セテプの心は更に乱されていく。

「あなたが殺しの神様よね? 今は殺していないのよね?」

「うん。今は王の護衛をしているの。だからむやみに殺せない」

「あなたにとって、殺しは楽しいこと?」

「いいえ」
 
そうなの とセテプは反射的に言いそうになった。
 
だが、彼女は無意識のうちに首を横に振り、分かりやすい嘘をついた。その嘘は、真実として目の前のアヌビスに受け止められた。
「ならよかったわね。したくないことをするなんて生きていて仕方がないもの」

「あなたは、したくないことをして毎日を生きているの?」

「そうね。私、死体を作る仕事が下手でなかなか上手くならなくて。今日も怒られてここで現実逃避をしているの」

「現実逃避」

「うん、現実逃避。逃げだしてきたの」
 
セテプは、最初はなにも思いはしなかったものの、言葉を理解して暫くした後驚愕した。
思わず見惚れてしまう美貌を持つ彼女が、堂々と庭に君臨していた彼女が、現実から逃げだしてきた。それが信じられなかったからだ。

「どうして逃げ出したの?」

「私が情けないからよ」
 
心が弱ったメシェは、初対面である神様の元で難なく恥を晒した。
彼女は、アヌビスであるにも関わらずミイラ作りが下手であり、死者の裁判でも堂々と振る舞うことができない。
 
アヌビスなのに、アヌビスの役割を果たすことができないのか?
 
事実は言葉の刃物となり、メシェの心を少しずつ削っていった。
彼女だって手を抜いている訳ではない。日々の努力を怠ったことはないし、常に全力を出して神様としての威厳を保とうとしている。しかし、どんなに努めてもミイラ作りの手順を間違えるし、裁判に出席するとどもってしまう。
本来ならば、セテプのように生まれた神に秘められた本能から考えなくてもできることが彼女にはできない。
 
それは、アヌビスとして存在している価値がないのと同義だった。
 
メシェの二人の兄達は、彼女を必死で励ましサポートしてきた。
俺達の妹なのだからきっと遅咲きなのだと。能力は秘められていると。
当然のように自らの役割に徹している兄達の言葉すら重みとして精神を締め付けてくる重圧にメシェは潰されそうになっていた。

「私は自分の役割を果たしたくて生きてきた。でもいくら努力しても下手なままなの。ミイラは腐らせちゃうし裁判に出席すれば恥をかく。そんな毎日に疲れてここに来るの」
 
セテプは、心の膿を吐き出すメシェの言葉をただ受け止める。

「私、あなたが羨ましい」

「羨ましい?」
 
血迷ったのかと思った。
私が?
殺すことしか能がない私が?

「やりたくなくても勤めを果たせるのが羨ましい」
 
メシェは、このままその場から消えてしまうのではないかと思えるくらいに暗く、切ない表情を見せる。
セテプは思う。もし、自分に殺したくても殺せる力がなかったら。
もどかしいなんてものではない。人間だって死にたくはないのだから必死になるだろうし、さあ私を殺して下さいと開き直る狂人はそうそういないだろう。基本的に、生き物は生きていたいから生きているのだから。
スムーズな殺人は、その圧倒的力があってこそ可能なのである。
セテプは、庭で落ち込む彼女は全てを持っているものだと思っていた。
しかしそれは杞憂であり、寧ろ彼女は自分より劣っていた。
だから、素直に助けたいとセテプは思った。

「ちょっと待ってて」
 
なにを思いついたのか、セテプは、メシェの返事を待たずに庭から駆け出していた。

「?」
 
首を傾げること数十秒後。人並み外れた速さで自分の部屋から往復してきたセテプの手には、大きな壷に入った真っ赤なワインと器が二つ。

「そういう時は、酔うのが一番よ」
 
それは、あまりにも純粋無垢に放たれた善意の言葉。
世間に疎い、この神にしかできない対処。
純粋無垢な笑顔をセテプは見せた。

実際、それはある意味では正しかったと言える。
下手な慰めよりも、共感による同情よりも、真っ直ぐな現実逃避。
殺すこと以外が不器用な、セテプだからこそできる行為。
メシェは暫く呆然とした後、愉快そうに笑い始めた。

「私、なにかおかしなこと言ったかしら?」

「いいえ。あなたの言う通りだと思う。私、少し肩に力を入れ過ぎていたのかもしれない」

「そうよ。そんな難しい顔をしていないで笑った方があなたは素敵だと思う」
 
セテプは、少々恥じらいながら気持ち込めたが、幸か不幸か、本当の意図は彼女には伝わらなかった。
だが、メシェにはそれはよく効いた。


そんな普通のことで、メシェの無表情の仮面が外れた。

 
殺人鬼を目の前にしたメシェの不安も剥がれていく。酒壷を抱えて無邪気に微笑むのは、あくまでも、例外な女のアヌビスを心配するただの生き物だった。

「その壷のお酒、全部飲んでもいいのよね?」

「うん。私、お酒はいくらでも支給して貰えるの」

「なら遠慮はしないわ。浴びるほど飲ませて貰うから」
 
素に戻ったメシェは、セテプから器を奪い取り紅いワインを喉に押し込んでいく。男性を思わせる、顎を上にあげた豪快な飲み方。喉に滴る赤い酒、全てを飲み乾して顔を戻したメシェは、先程の負の感情を完全に吹き飛ばしていた。

「これ美味しいわ。今まで飲んだワインの中でずっと」

「最高級のワインだからね」

「ますます羨ましいわ。そういえば、あなたの名前を聞いていなかったわね」

「セテプよ。殺しの神の、セクメトのセテプ」

「私はメシェネトよ。言いにくいからメシェって呼んでね。世にも珍しい、女のアヌビスよ」
 
彼女達は、あくまでも自然に握手を交わしている。
友情が始まろうとしていた。
 
セテプの心は惑わされたままである。こうしてメシェの手を触れているだけで心臓が乱れているのを感じるし、他人を殺した時に近い快楽を感じている。
 
これから先、このアヌビスなしでは生きてはいけないのだと、セテプは察している。

例えば見直した人間がこのメシェを殺すと言ったら? セテプは全てを捨てて彼女を守るだろう。

例えばメシェがこの国から役立たずとして追放されら? セテプは宮殿を捨てて共に同行する未来を選ぶだろう。
 
そう、殺人が嫌いだなんて嘘をつけるくらいの相手なのだから、セテプがそんなことで躊躇する筈がない。それが、終わりの見えない砂漠のような、厳しい道だとしても。
 
見事なまでの壁画も、メシェに比べれば劣る。
セテプは本当の意味で生きる意味を見つける。それはあまりにも単純で、心変わりをすればあっさりと終わるもの。しかし、これまで他人を傷つけることしかしてこなかった彼女にとっては、初体験であり、そう簡単には揺らぐことのないもの。
 
メシェは酒に溺れながら、庭の中でセテプに対して愚痴を吐き続ける。話を聞く度に強張った表情が緩やかになっていく初恋の相手を見つめていると、こちらの気分まで安らいでいくのを確かに感じていた。
 


きっと、この慈愛の念は簡単に消えないのだろうとセテプは確信する。
 
なぜなら、庭に紛れ、心を休めていたメシェに恋をした気持ちはあくまでも本物だからだ。








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